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私が学生時代に勉強しなかった理由(いいわけとも言う)

哲学

理論に現実が応える

 私は理系でした。一応、しがない四年制大学を卒業しております。
 勉強は嫌いではないのです。しかしながら、私は勉強を全くしませんでした。
 私にこびりついて離れない切実な疑問があったからです。

 それは、「どうして人間の考えた理論(モデル)が現実に適応され得るのか」という疑問です。

 なぜ、たかだか人間の脳みそで考えたに過ぎないモノに、現実が応えるのか。これが考えても考えても分からなくて、それを当然のこととして成り立つ科学という営みが全く信用できませんでした。信用できないものを、勉強したいとは思えませんでした。

同じ問いはすでにずっと昔に問われていた! 「自然の斉一性原理」

 世の中には哲学というものがあります。私は哲学が好きです。
 とある哲学の本で、デイビット・ヒュームが「自然の斉一性原理」を18世紀には提示していたことを知りました。
 これはつまり、私が抱いた疑問をヒュームも抱いており、その答えとして提示したものです。

 科学は暗黙のうちに、「自然界で起きる出来事には何らかの秩序があり、似た条件のもとでは、同じ現象が引き起こされるはずだ」という根拠無き前提(つまり、信念)をその身のうちに吞み込んでいるということです。

科学は「帰納法」が基本

 科学は帰納法によって成立しています。つまり、AとBとCという互いに独立した別個の事象から、抽象的なモデル──(教授の言葉を借りるなら)その本質を取り出すのが科学の営みということです。*1

 しかし、なぜそれが次の事象Dにも当てはまるのでしょう。その根拠は? 過去にも同じように理論を適応することができたから? それも帰納法からの推測ですよね。
 こうやって、最終的にはぐるぐる回る循環論法になります。

 つまるところ、「過去に起こったことは現在でも未来でも起こるんだ。よくわかんないけど、そうなっているんだよ!」と言うしかなくなるわけです。信念でしかない。

 しかし、この不安定な土台の上になぜだか科学という牙城は堅牢にそびえたっているように見えるのです。私たちの日常生活には、科学の恩恵が存在しないものはほぼありません。この圧倒的な現実の前では、私もその、ある意味宗教的な信念を吞み込まざるをえないのかもしれません。

 しかし、私は吞み込みたくないのです。激しく抵抗します。これはなぜかというと、ヒュームの言う「自然の斉一性」を認めてしまうと、その背後にある「絶対的な存在」を認めてしまうことにつながってしまいそうだからです*2。それは何よりも自由を信奉する私の性質に反する、決定論にいきついてしまいそうな匂いがします。端的にいうと、不快なのです。

「決定論」は嫌なんだ

 なぜ、世界は理論(人間の認知形式で構築されたモデル)に応えるのか。所詮は人間が考えたことでしかないのに。私は人間中心に考えすぎているのだろうか。

 本当は逆なんだろうか。世界が論理的で因果関係をもつから、人間の認知形式がそのように発達したのだろうか。では、世界はすでに絶対的なルールによって構築されているのだろうか。

 そうであるならば、人間はそれに従うしかないのだろうか。従うのなら、必然、人間には自由はないのではないか。私は鎖でぐるぐる巻きになっているのではないか。

 飛躍し過ぎかもしれませんが、そんな疑問が私の頭に沸き起こります。不安になります。

 早めに、ヒュームの著作を読みたいと思います。*3

*1:もちろん、その逆もあります。演繹的に、モデルを事象に適応することもあります。しかし、科学にとって最も重要であろうことはモデルを抉り出すことだと私は考えます。なぜなら、帰納法で取り出したモデルを演繹法で事象に適応して……というスパイラルが科学の進歩の秘訣なのでしょうが、その一番初めのステップはやはりモデルを得ることだと思うからです。物理学ではそれが顕著であると思います

*2:ちなみに私は不可知論者です。が、神の定義によっては認めるかもしれないと最近では考えています。

*3:これとは関係ないですが、私は「行動分析学」の本を好んで読んでいました。この分野では原因が行為の後にくるという不思議な前提を置いているのです。それがヒュームの因果論を知って、「これやんけ!」──つまり、私の理解するところでは、因果関係は実際に”ある”のではなく、人間の想像力が生み出すものである──と興奮してしまったので、それもひとつの動機ではあります